車検のため、舞鶴からフェリーで札幌に戻ってきています。
ヨハン・クライフ率いるオレンジ軍団は、肩を落としながらミュンヘンのオリンピアスタディオン・スタジアムを去り、その夜、キーパーのヨンクブルートはホテルの窓から下のプールに向けてスパイクを投げ捨てました。
そして、西ドイツの偉大なリベロでありキャップテンだったフランツ・ベッケンバウワーは、 自国の空の下で新しくなったワールドカップトロフィーを天に高々と掲げて言ったのです。
強い者が勝つのではない、勝った者が強いのだ。
その試合を、日本で初めて生中継されたテレビ画面で僕は食い入るように見つめていました。
そして思いました。
日本がワールドカップという舞台に立つ姿を、この目で見ることがはたしてできるのだろうか
と。
それは、永遠に実現することのない、夢のまた夢のことのように思えたのです
・・・
1974年7月7日。
僕が17歳。 高校2年生の時のことでした。
それから4年ごとに訪れる期待感。
そして、直後に襲いかかる喪失感。
また、4年も待たなければならないのか
絶望的とも思われる長い日々。
当時、ブラジルではその長さに絶望し、セレソン(ブラジル代表)が大会を去った日に自ら命を絶ってしまった人がいました。
4年なんて待てない
と言い残したといいます。
ワールドカップという舞台はそう易々とは僕の夢をかなえさせてはもらえませんでした。
カズ、ラモスらの「ドーハ」では期待が大きかった分、落胆も大きかった。
現地まで行ったサポーターの方たちの 「フランスへ行こう」 という声がたまらなく空しく聞こえました。
しかし、やがて夢は訪れます。
マレーシア・ジョホールバルのラーキンスタジアムで岡野がVゴールを入れた瞬間、 僕はすぐ後ろで観戦していたJALのスッチーに抱きつき喜びに打ち震えました。
あの日から23年の年月が流れていました。
僕は40歳の中年オヤジになっていました。
人間と言うのは欲深いものです。
一つ夢をかなえると、その先にある夢をまた見る。
ワールドカップの舞台でいつ勝利を挙げることが出来るのだろうか。
これが僕の夢となりました。
2002年の日韓W杯という舞台でそれは実現しています。
しかし、自分の庭で成し遂げたものでは僕は満足できません。それでは真に勝利をあげたことにはならないのです。
韓国でさえ、ドイツで「初勝利」をあげるまで50年もの歳月を要しています。
黄金世代最後の舞台となったドイツではその夢がかなうことはありませんでした。
ブラジル戦終了後、グラウンドに横たわり動かないナカタを見ながら、輝ける一つの時代が終わったのだと思いました。
そして舞台は初のアフリカの大地に移ります。
その初戦のカメルーン戦でなんとその夢が突如かなえられます。
終了のホイッスルの瞬間、僕は妻と抱き合いこの勝利に涙しました。家で観ていたので、近くにスッチーがいなかったからです。
さて、次は予選リーグを突破することが僕の夢になりました。
その夢を見るためにその二日後に南アフリカに向けて旅立ち、
僕の目の前でホンダの美しいフリーキックがさく裂し、その瞬間を見届けることができました。
その4年後のブラジルは・・・その情けない戦いぶりに帰国してからもしばらくは思い出すことすらしませんでした。
時々思うのです。
残り少なくなってきてしまった人生で、 あと何回ワールドカップを観ることができるのだろうかと。
おそらく、ワールドカップ・トロフィーを日本人が掲げる姿を僕のこの目で見る事はないでしょう。
それはそれでいい。
最後の夢をかなえてしまえばそれは夢ではなくなります。
永遠に夢を見続けさせてほしい。
それがサッカーというスポーツなのです。
あと4時間後に日本の初戦、コロンビア戦です。
そして、僕の61回目の誕生日となる3日後の6月22日に
・・・
ロシアへ向けて旅立ちます。
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誕生日の翌日は私の誕生日!
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